瀬戸語録:「瀬戸正人写真学校 in 福島」第2回報告

8月22日に開校した「瀬戸正人写真学校in福島」は、コロナの感染拡大のため9月19日は中止となり、10月24日に待望の第2回が開催されました。8月は瀬戸さんには東京からリモートでご参加いただきましたが、今回は来福され、初の対面授業となりました。

 2か月のブランクが空きましたが、今回も力作揃い。

参加者の皆さんには、事前に一人100枚程度の写真を提出していただき、瀬戸さんにあらかじめその中からセレクトしておいていただきました。講座では、一人ひとりのセレクト写真を見ながら、アドヴァイスや評価のポイントをお聞きしました。

 瀬戸さんの言葉を拾い上げながら、3時間にわたった授業の様子をご紹介します。

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写真は皆さんにとって何なのか。何のために撮っているのか。

何故写真を撮り始めたのか。何故写真が好きになったのか。写真を撮るというのはそこから始まっている。

 

写真は誰のためにあるのか。

写真は自分のためにあるのだけれど、見る人がいるから成立する。その両面がある。

写真には、撮られるものがあり、撮った人いて、その間にカメラがある。そしてその写真を見る人がいる。この4者が揃ってはじめて写真が成り立つ。

 

写真を見るというのはどういうことなのか。

きれいな花が写っている。しかし我々はそこを見ているのではない。撮った人の世界観、美学的なこと、人生を含めて、そういうものを感じている。

撮った人からすれば、写真を見られるということは、自分の世界観を覗かれるということ。

 

写真を撮るとはどういうことだろう。

人にはそれぞれ撮らなくてはならないものがあるからそれを撮る。では撮るべきものはどこにあるのか。それを探しに行かなくてはならない。自分を探すようなもの。そこに自分にとって大事なものがある。自分にとって大事なものを見つけて撮るからこそ、それを見た人は感動する。そうであれば、たとえそこに言葉がなくても、通じなくても、人間として世界観が共有できる。

 

写真って現実だと思っているかもしれないけれど、現実ではない。フェイク。現実のコピー。現実はどんどん過ぎていく、変わっていく。写真と現実の間にはギャップがある。カメラは嘘をつくことができる。そこの面白さに気づいて欲しい。

 

しょっちゅう撮っていると、感覚が芽生えたり、発展があったりする。アスリートと同じ。撮る意識を持って頻繁に撮らないと上達しない。

 

滝とか虹とか最低わかるように撮った方がいい。写真には、何が写っているか、具体性がないといけない。

 

何もなくてよい。ポイントがない、空っぽ、そこがいい。

あまりにも空っぽだと写真として成立しないが、そのギリギリのところに実は重要なものがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真は何を撮ってもよい。しかし自分にとって撮らなければならないものは強くあって、それを意識したとたんに写真は強くなる。人にインパクトを与えられる。

自分がこれを見たいという感覚をしっかり持てなければ伝わらない。

 

写真において気持ち悪いというのは誉め言葉。変態というのも誉め言葉。

 

みんなが見たことのないような写真がいい。どこかで見たことがあるような写真はいらない、ということ。見たこともないようなものは、実はあまりないけれど、全くないかというとそんなことはない。それを探すことが写真を撮ること。

 

写真を撮る時は、そのままたくさん受け入れて、見せる時は自分の中で処理して切り落としていく。どこまで切り落とせるかが見せる時の勝負。

 

モノクロとカラーは、人格が違うくらいに違うもの。

一つのシリーズの中でモノクロの隣にカラーが並ぶということはあり得ない。

 

写真を撮るということは、常に現実と向き合うこと。我々が目にしたものしか写せない。この世界を受け止めるのが写真。そういう哲学を持とうよ。そのまま受け止めるのが写真という装置。小型で性能のいいスキャナーがカメラだと思っている。写真を撮る行為とは、このカメラを持って世界をスキャンすること。

 

僕には写真の先生が二人いた。森山大道先生は、プリントする時にものすごく手を入れる。だから自分でも再現できない。同じことをしていても毎回微妙に違う。反対に深瀬昌久先生は全く手を入れなかった。そのフィルム、そこに届いた光、感光したものすべてを受け入れた。

手を入れて整えるか、それとも受け入れるか。僕は二人の先生を見ていて、その間を行ったり来たりしている。

 

写真は教えられない。人生どうやって生きたらいいか、誰も教えられないように、写真も教えられないはず。レンズの使い方、現像の仕方、テクニックは教えられるけれど、何を撮ったらいいのか、本質的なことは教えられない。しかし教えるためにポイント(構図の作り方や定型のようなもの)が必要だと考えられるようになった。花ならこう撮らなければならないというように。だから日本全国皆同じような写真になってしまった。戦後日本の独特のシステムだ。根深い話だが、しかしそれは間違っていると言いたい。個性が出せない。写真はもっと自由なはず。

 

写真は芸術。では芸術とは何か。

アメリカの進化生物学者・ダイアモンド博士によれば、芸術とは、

1 人間の行為。人間が作ったもの。

2 美しいもの。「美しい」には色々な意味が含まれる。

3 役に立たないもの。

役に立たないほど美しい。

 


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最後は芸術論で終わりました。もっと自由に解き放たれて、カメラを世界に向けて欲しい。瀬戸さんから受講者へ熱いエールが送られました。

 

芸術が役立つことを何かと求められる昨今、ここまで言い放っていただき胸がすっきりしました。役には立たないけれど、人が生きていくために必要なもの。芸術は不要不急ではないのです。

次回の写真も楽しみにしています。