映画「トオイと正人」上映会と、アフタートーク開催しました

12月4日に「瀬戸正人 記憶の地図」展が開幕した翌日、12月5日、小林紀晴監督による映画「トオイと正人」の上映会が開催されました。瀬戸正人さんの自伝的エッセー『トオイと正人』(1999年、第12回新潮学芸賞受賞)を元に制作されたドキュメンタリータッチの映画です。

瀬戸正人さんは、1953年にタイのウドーンタニに生まれました。父は福島県国見町出身の残留日本兵、母はベトナム人。冷戦が激化した1961年、ウドーンタニが大火に見舞われたこともあり、瀬戸さんは父の故郷、福島に家族で移り住みます。父親は、ウドーンタニで経営していた写真館を福島でも開業。瀬戸さんはその後、東京で写真を学びますが、写真館を継ぐことなく写真家として歩み始めました。『トオイと正人』は、そうした瀬戸さんの生い立ちをつづった著作です。 

小林さんは、1968年生まれ。1995年のデビュー作『アジアン・ジャパニーズ』以降、写真制作をベースにノンフィクションや小説など多岐にわたる活動をされてきました。「トオイと正人」は映画初監督作品。東京ドキュメンタリー映画祭2021入選、バンコク・インターナショナル・ドキュメンタリー映画祭で新人監督ドキュメンタリー賞を受賞しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

午後の上映会の後、小林紀晴さん、瀬戸正人さんによるアフタートークを行いました。言葉を拾いながら、その様子をご紹介しましょう。

 

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瀬戸:『《バンコク・ハノイ》1982-1987』は、自分が写真家としてやっていこうとした時に、最初にテーマを定めて撮った写真でした。その後、小林さんが『アジアン・ジャパニーズ』という写真集を出されて、こういう若者もいるんだなと、すごく驚きました。

 

小林:『バンコク・ハノイ』は衝撃を受けた写真集です。あの頃、アジアを撮る写真家はあまりいませんでした。

…最初、瀬戸さんのような写真は俺もとれるよ、くらい自信満々でした。しかし実際現地に行ってみたら、人のエネルギーに圧倒されました。自分では無理だ。一種の敗北感がありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

瀬戸:自分の写真をどこから始めるか、その立ち位置というのは、後から考えると大事です。僕は作家になりたいというところから出発したけれど、食べていけない。…自分の立ち位置をどこに定めるか、どうテーマを決めるか、考えても思い浮かばない。そこで思いついたのが20年ぶりにタイを訪ねることでした。

 

瀬戸:写真で記憶を撮ることはできません。写真を撮った瞬間、記録になっていく。でもそれだけでなくて、写真で記録をとりながら、次々と記憶が蓄積されていく。あの旅は、忘れていた少年時代、言葉も含めて記憶が甦るきっかけとなりました。それから写真というものを深く考えるようになったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

瀬戸:タイのウドーンタニが大火にあった。その時父がやっていた写真館も全部焼けたのに、何故家族アルバムが残っているかというと、父親が自分の生活の報告という意味で福島にアルバムを10冊くらい送っていたからです。それが残っていました。家族が見て本当に感動しました。よく撮って福島に送ってくれたと。

 

瀬戸:写真は誰のものか、ということを考えます。100年後、撮った人も撮られた人もいない、カメラも壊れている。写真は、その時に見た人のもの。実は100年後に見たその人のために撮られたのかもしれません。それが写真の本当の意味ではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小林:最初『トオイと正人』を読んだ時、自然と映像が浮かんできました。より視覚的でした。他の本を読んでこういう経験はありませんでした。メコン川、阿武隈川が自分の中で交錯して、これは映画になると勝手に思い込んだのです。

・・・それから10年くらい経ち、普通のカメラで映像が撮れるようになった。一人で編集もできることがわかってきたので、できるかなと思った。そこで瀬戸さんにお願いしました。自分のお金で撮っています。最初に読んでから20年くらいがたっていました。

 

小林:今後はやはり写真を中心にやっていきます。写真と映像はやっぱり別もの。

・・・写真は展示で時間軸を変えることができるけれど、映像はそうはいきません。

 

瀬戸:…父親がタイから日本に帰国する時、戦友たちを訪ねて「恩給ももらえるし、帰ろう」と誘ったけれど「もう勘弁してくれ、もう帰れない」と言われたそうです。子供が4~5人いて、お金もない。仕事もうまくいかなかった。だから帰れなかった人たちがたくさんいました。父親は日本に帰ってきてから、戦友たちに、海外から恩給をもらえるように手続きをしてあげました。帰れなかった人たちが1万数千人いると聞いているけれど、どっちが幸せかわかりません。戦争はいろいろな人の人生を狂わせました。僕がこうして帰ってきたのも幸いですよ。

  

瀬戸:小林さんと一緒にメコン川に行きました。それは父親の見た風景を見たいと思ったから。日本兵はみんな見ていました。そして、いつ渡ったらいいか、それともここに留まった方がいいのか考えたと思います。

 

・・・上官に「1ヶ月後に船が上がってきて日本に帰れる。待つ人はここで待ちなさい。」と言われたけれど、父は日本は負けたんだから帰れないと考えた。そういう人たちは離脱するしかありません。でも離脱するということは脱走兵になること。だから戦後、自分から名乗り出てることはなかなかできなかったのです。

 

・・・川を渡るということは、別世界に行くということ。命懸けだったと思います。

 

・・・父も、もしベトナム戦争もなく平和だったら、仕事もうまくいっていたし、戻ってこなかったんじゃないか。人が生きる時の判断って、本当に難しいです。

 

…写真館が嫌で東京に出たけれど、落ち着いたところはポートレート。不思議な巡り合わせです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小林:瀬戸さんと一緒にウドーンタニに行きましたけれど、瀬戸さんはほとんど写真を撮らない。カメラを出さない。その後、タイなどの写真は発表されていますか。

瀬戸:していません。発表するほどのものではない。同じように帰ってくる度に福島も撮っているけれど発表していません。故郷というのは人に見せるものではないという感じ。自分が見るために撮る。

 

小林:写真家の8~9割は生まれたところを撮るんじゃないかという気がする。瀬戸さんが発売されているものはバンコク、ハノイ。でも本来だったらウドーンタニのはず。写真家として、一番の核心を空白にしておく。そこをあえて外してくるところが瀬戸さんなんじゃないかと思っています。

 

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小林さん、瀬戸さん、興味深いお話しを有難うございました。

80名ほどのお客様ととともにお話をお聞きした後、瀬戸さんのサイン会となりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次回の上映会は1月15日(土)となります。10:30、13:00、15:00の3回上映。

ご覧になれなかった方、是非お出かけください。

観覧は無料ですが、展覧会チケットをお持ちください。