瀬戸語録:「瀬戸正人写真学校in福島」第4回報告
8月に開校した「瀬戸正人写真学校in福島」もいよいよ大詰めになってきました。12月12日日曜日、第4回が展示室Bで開催されました。
これまで美術館の建物の奥にある美術館講堂で開催してきましたが、12月4日に「瀬戸正人 記憶の地図」展が開催し、企画展示室内の最後の部屋を使って行われました。ここは関連映画の予告編をご紹介したり、この写真学校の事業を展開するためにオープンスペースとした部屋です。展覧会を見終わった方が通るスペースでもあるので、写真学校にご参加でない方も「何やってるんだろう?」とちょっと覗いていただける場所になっています。たくさんの方と共に瀬戸さんの言葉に耳を傾けました。
今回は、これまで3回の講座で瀬戸さんにセレクトしていただいた写真に加え、そこで落とされたけれど敗者復活したい自分推し作品、新たに見てもらいたい自信作を提出することが可能になっていました。いよいよ展示作品を決めます。成果展に向け、みなさん心残りのないように、最後のセレクトの回に臨みました。今回はZoom参加はなく、ほぼ全員美術館に集まりました。コロナも落ち着いており、瀬戸さんと直接お話をしながら、納得して作品を決められて本当によかったです。
今回も、瀬戸さんの言葉を拾いながら、様子をご紹介しましょう。
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完成している、安定している写真ではなくて、出来上がっていない写真、半端だと見える写真も、注目しなくてはならないものだと思っている。
…出来上がっていない写真に、写真の神様が宿ることがある。
見る人は、写真の中にポイント(中心)を期待する。撮る人もそれを忖度する。でもそれではいけない。驚きがなくなってしまう。驚きを作るためには裏切る。なかなか難しいけれど。
写真はバラバラなんだけれど、撮った人の世界観がしっかりあればそれはそれでいい。
例えば個展で、40枚バラバラの写真が並んでも、世界観が感じれるのであれば、それでいい。ということは、実は写真はどこを撮ってもいいということ。作家としての世界観があるなら、被写体はなんでもいいということ。それがないならテーマを決めなくてはならないけれど、取っ払えるのなら、取っ払った方がいい。もっと自由であっていい。
中心がない、空気を撮っているような写真。その時何が起きているかというと、撮っている人の内面、気持ちが現れでてくる。
盆踊りの空気感を写しているようなもの。花火を写したわけじゃない。櫓を写したわけでもない。お祭りなんだけれど名付けられないような場所を撮っている。重要なテーマです。
〈展示について〉撮影者の名前もタイトルもいらない。脈絡を無くして展示したい。見た人は誰の写真かなんて関係なく、どれがいいかを見てくれればいい、というところまでしたい。
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ということで、キャプションはなし。各写真の下に、撮影者に対応した番号シールを貼るだけ。
作品は基本的にシャッフルして展示することになりました。瀬戸さんが壁面に写真をレイアウトして下さいます。撮影者順ではありませんし、上下があったり、作品によって感覚を開けたりすることもあるでしょう。
受講生と瀬戸さんの完全コラボレーションということです。
担当としては、わくわく、いや正直ドキドキの方が大きいかも。
何はともあれ、泣いても笑っても26日が最終日です。受講生の皆さんからは、記念写真、卒業証書などいろいろな要望が出ました。名残惜しいですね。
展示は、この企画展示室Bです。
そうそう、受講生のご要望により、当日12:30から瀬戸さんにギャラリートークをしていただくことになりました。ハプニングです。
受講生のみでなく、一般の方もお聞きいただけますので、チケットをお持ちの上展示室入口にお集まりください。