福島県立美術館ブログ

瀬戸語録:「瀬戸正人写真学校in福島」第4回報告

8月に開校した「瀬戸正人写真学校in福島」もいよいよ大詰めになってきました。12月12日日曜日、第4回が展示室Bで開催されました。

 

これまで美術館の建物の奥にある美術館講堂で開催してきましたが、12月4日に「瀬戸正人 記憶の地図」展が開催し、企画展示室内の最後の部屋を使って行われました。ここは関連映画の予告編をご紹介したり、この写真学校の事業を展開するためにオープンスペースとした部屋です。展覧会を見終わった方が通るスペースでもあるので、写真学校にご参加でない方も「何やってるんだろう?」とちょっと覗いていただける場所になっています。たくさんの方と共に瀬戸さんの言葉に耳を傾けました。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回は、これまで3回の講座で瀬戸さんにセレクトしていただいた写真に加え、そこで落とされたけれど敗者復活したい自分推し作品、新たに見てもらいたい自信作を提出することが可能になっていました。いよいよ展示作品を決めます。成果展に向け、みなさん心残りのないように、最後のセレクトの回に臨みました。今回はZoom参加はなく、ほぼ全員美術館に集まりました。コロナも落ち着いており、瀬戸さんと直接お話をしながら、納得して作品を決められて本当によかったです。

 

今回も、瀬戸さんの言葉を拾いながら、様子をご紹介しましょう。 

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完成している、安定している写真ではなくて、出来上がっていない写真、半端だと見える写真も、注目しなくてはならないものだと思っている。

…出来上がっていない写真に、写真の神様が宿ることがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見る人は、写真の中にポイント(中心)を期待する。撮る人もそれを忖度する。でもそれではいけない。驚きがなくなってしまう。驚きを作るためには裏切る。なかなか難しいけれど。

 

写真はバラバラなんだけれど、撮った人の世界観がしっかりあればそれはそれでいい。

例えば個展で、40枚バラバラの写真が並んでも、世界観が感じれるのであれば、それでいい。ということは、実は写真はどこを撮ってもいいということ。作家としての世界観があるなら、被写体はなんでもいいということ。それがないならテーマを決めなくてはならないけれど、取っ払えるのなら、取っ払った方がいい。もっと自由であっていい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中心がない、空気を撮っているような写真。その時何が起きているかというと、撮っている人の内面、気持ちが現れでてくる。

 

盆踊りの空気感を写しているようなもの。花火を写したわけじゃない。櫓を写したわけでもない。お祭りなんだけれど名付けられないような場所を撮っている。重要なテーマです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 〈展示について〉撮影者の名前もタイトルもいらない。脈絡を無くして展示したい。見た人は誰の写真かなんて関係なく、どれがいいかを見てくれればいい、というところまでしたい。

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ということで、キャプションはなし。各写真の下に、撮影者に対応した番号シールを貼るだけ。

作品は基本的にシャッフルして展示することになりました。瀬戸さんが壁面に写真をレイアウトして下さいます。撮影者順ではありませんし、上下があったり、作品によって感覚を開けたりすることもあるでしょう。

受講生と瀬戸さんの完全コラボレーションということです。

担当としては、わくわく、いや正直ドキドキの方が大きいかも。

何はともあれ、泣いても笑っても26日が最終日です。受講生の皆さんからは、記念写真、卒業証書などいろいろな要望が出ました。名残惜しいですね。

展示は、この企画展示室Bです。

 

そうそう、受講生のご要望により、当日12:30から瀬戸さんにギャラリートークをしていただくことになりました。ハプニングです。

受講生のみでなく、一般の方もお聞きいただけますので、チケットをお持ちの上展示室入口にお集まりください。

映画「トオイと正人」上映会と、アフタートーク開催しました

12月4日に「瀬戸正人 記憶の地図」展が開幕した翌日、12月5日、小林紀晴監督による映画「トオイと正人」の上映会が開催されました。瀬戸正人さんの自伝的エッセー『トオイと正人』(1999年、第12回新潮学芸賞受賞)を元に制作されたドキュメンタリータッチの映画です。

瀬戸正人さんは、1953年にタイのウドーンタニに生まれました。父は福島県国見町出身の残留日本兵、母はベトナム人。冷戦が激化した1961年、ウドーンタニが大火に見舞われたこともあり、瀬戸さんは父の故郷、福島に家族で移り住みます。父親は、ウドーンタニで経営していた写真館を福島でも開業。瀬戸さんはその後、東京で写真を学びますが、写真館を継ぐことなく写真家として歩み始めました。『トオイと正人』は、そうした瀬戸さんの生い立ちをつづった著作です。 

小林さんは、1968年生まれ。1995年のデビュー作『アジアン・ジャパニーズ』以降、写真制作をベースにノンフィクションや小説など多岐にわたる活動をされてきました。「トオイと正人」は映画初監督作品。東京ドキュメンタリー映画祭2021入選、バンコク・インターナショナル・ドキュメンタリー映画祭で新人監督ドキュメンタリー賞を受賞しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

午後の上映会の後、小林紀晴さん、瀬戸正人さんによるアフタートークを行いました。言葉を拾いながら、その様子をご紹介しましょう。

 

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瀬戸:『《バンコク・ハノイ》1982-1987』は、自分が写真家としてやっていこうとした時に、最初にテーマを定めて撮った写真でした。その後、小林さんが『アジアン・ジャパニーズ』という写真集を出されて、こういう若者もいるんだなと、すごく驚きました。

 

小林:『バンコク・ハノイ』は衝撃を受けた写真集です。あの頃、アジアを撮る写真家はあまりいませんでした。

…最初、瀬戸さんのような写真は俺もとれるよ、くらい自信満々でした。しかし実際現地に行ってみたら、人のエネルギーに圧倒されました。自分では無理だ。一種の敗北感がありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

瀬戸:自分の写真をどこから始めるか、その立ち位置というのは、後から考えると大事です。僕は作家になりたいというところから出発したけれど、食べていけない。…自分の立ち位置をどこに定めるか、どうテーマを決めるか、考えても思い浮かばない。そこで思いついたのが20年ぶりにタイを訪ねることでした。

 

瀬戸:写真で記憶を撮ることはできません。写真を撮った瞬間、記録になっていく。でもそれだけでなくて、写真で記録をとりながら、次々と記憶が蓄積されていく。あの旅は、忘れていた少年時代、言葉も含めて記憶が甦るきっかけとなりました。それから写真というものを深く考えるようになったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

瀬戸:タイのウドーンタニが大火にあった。その時父がやっていた写真館も全部焼けたのに、何故家族アルバムが残っているかというと、父親が自分の生活の報告という意味で福島にアルバムを10冊くらい送っていたからです。それが残っていました。家族が見て本当に感動しました。よく撮って福島に送ってくれたと。

 

瀬戸:写真は誰のものか、ということを考えます。100年後、撮った人も撮られた人もいない、カメラも壊れている。写真は、その時に見た人のもの。実は100年後に見たその人のために撮られたのかもしれません。それが写真の本当の意味ではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小林:最初『トオイと正人』を読んだ時、自然と映像が浮かんできました。より視覚的でした。他の本を読んでこういう経験はありませんでした。メコン川、阿武隈川が自分の中で交錯して、これは映画になると勝手に思い込んだのです。

・・・それから10年くらい経ち、普通のカメラで映像が撮れるようになった。一人で編集もできることがわかってきたので、できるかなと思った。そこで瀬戸さんにお願いしました。自分のお金で撮っています。最初に読んでから20年くらいがたっていました。

 

小林:今後はやはり写真を中心にやっていきます。写真と映像はやっぱり別もの。

・・・写真は展示で時間軸を変えることができるけれど、映像はそうはいきません。

 

瀬戸:…父親がタイから日本に帰国する時、戦友たちを訪ねて「恩給ももらえるし、帰ろう」と誘ったけれど「もう勘弁してくれ、もう帰れない」と言われたそうです。子供が4~5人いて、お金もない。仕事もうまくいかなかった。だから帰れなかった人たちがたくさんいました。父親は日本に帰ってきてから、戦友たちに、海外から恩給をもらえるように手続きをしてあげました。帰れなかった人たちが1万数千人いると聞いているけれど、どっちが幸せかわかりません。戦争はいろいろな人の人生を狂わせました。僕がこうして帰ってきたのも幸いですよ。

  

瀬戸:小林さんと一緒にメコン川に行きました。それは父親の見た風景を見たいと思ったから。日本兵はみんな見ていました。そして、いつ渡ったらいいか、それともここに留まった方がいいのか考えたと思います。

 

・・・上官に「1ヶ月後に船が上がってきて日本に帰れる。待つ人はここで待ちなさい。」と言われたけれど、父は日本は負けたんだから帰れないと考えた。そういう人たちは離脱するしかありません。でも離脱するということは脱走兵になること。だから戦後、自分から名乗り出てることはなかなかできなかったのです。

 

・・・川を渡るということは、別世界に行くということ。命懸けだったと思います。

 

・・・父も、もしベトナム戦争もなく平和だったら、仕事もうまくいっていたし、戻ってこなかったんじゃないか。人が生きる時の判断って、本当に難しいです。

 

…写真館が嫌で東京に出たけれど、落ち着いたところはポートレート。不思議な巡り合わせです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小林:瀬戸さんと一緒にウドーンタニに行きましたけれど、瀬戸さんはほとんど写真を撮らない。カメラを出さない。その後、タイなどの写真は発表されていますか。

瀬戸:していません。発表するほどのものではない。同じように帰ってくる度に福島も撮っているけれど発表していません。故郷というのは人に見せるものではないという感じ。自分が見るために撮る。

 

小林:写真家の8~9割は生まれたところを撮るんじゃないかという気がする。瀬戸さんが発売されているものはバンコク、ハノイ。でも本来だったらウドーンタニのはず。写真家として、一番の核心を空白にしておく。そこをあえて外してくるところが瀬戸さんなんじゃないかと思っています。

 

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小林さん、瀬戸さん、興味深いお話しを有難うございました。

80名ほどのお客様ととともにお話をお聞きした後、瀬戸さんのサイン会となりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次回の上映会は1月15日(土)となります。10:30、13:00、15:00の3回上映。

ご覧になれなかった方、是非お出かけください。

観覧は無料ですが、展覧会チケットをお持ちください。

 

 

瀬戸語録:「瀬戸正人写真学校 in 福島」第3回報告

瀬戸語録:「瀬戸正人写真学校in福島」第3回報告

 

「ドラえもん展」最終日を二日後に控えた11月21日(日)、写真学校第3回目が開催されました。チケットを買う長い列を横目に見ながら。

さて回も進むにつれ、セレクトの基準も厳しくなって、選ばれる写真の数がぐっと少なくなりました。今回も講座の中で瀬戸さんの写真論が展開されたので、言葉を拾いながらご紹介していきましょう。

 

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中心がない、そういう写真は見過ごされやすい。選択肢の外に置かれやすいのだけど、よく見ると空間、視覚、空気感、大袈裟に言うと自分、その人の世界観が意外と表れる。中心があるとそこに目がいってしまって、中心、ポイントがいいかどうかという議論になりがちだが、中心がない分、作者の考え方、個性が表れやすい。そこを意識して撮れば自分を出しやすい。

 

紅葉はきれいだけれど、これが写真の大問題なんです。撮らされている私がいるパターン。自分が入る余地がない。圧倒的に向こうの方がきれいだし、すごい力を持っているので、どう対峙したらいいのかということになる。いくら撮っても先が見えない。

 

どこに行ったらいいのか、何を撮ったらいいのか、そういうことは普通日常的によくあること。・・・歩いているうちに何か見つかる、見つけちゃった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

探していない人のところには現れない。何かないかと探しまわる人のところに現れる。漠然と歩いていても見てないのと一緒。見つけられない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これ以上寄ると抽象画のようになってしまうけれどまだ具体性が残っている。・・・見る人にいろいろ錯覚させるそのギリギリ。それがいい。

 

たくさん撮るのはいいけれど、その中から選び出す力がないと撮る力になっていかない。

 

この写真はオーソドックスで何も主張していないんですが、何かがいる感じがする。中心がないけど、何かがそこにいる。

 

こういうもの(大きな岩)に神様が宿っているんじゃないかと僕は思っている。何か惹きつけられる。撮りたくなるものですよ。

 

その効果を狙って撮るとして、もうバレちゃっているから面白くないですよね。・・・こうすればこうなる、頭で計算ができている、それを撮った写真はあまり面白くないです。何故かというと考えちゃっているから、もう出来上がっているから感動がないんです。

 

パッと見ちゃった風景がある。実は見たときに撮れちゃっている。しかしそれを人に言ってもわからないので写真に撮る。1秒でカメラを握り、2秒後にそっちに向かい、3秒後にさっき見ちゃった風景はこれかなと思ってシャッターを押す。これにはトレーニングとか経験がいるんですが、見ちゃった時に終わっているという感覚。もう撮れちゃっているんです。

 

(スナップの撮影について)そもそも写真を撮るということ自体が悪意のある行為。写真を撮るという行為の向こうに、人間の何かを暴き出そうという私がいる。それは仕方なくあって写真を撮る。

 

写真は半分に破いても写真。いくら破いても写真です。写真のかけら。かけらでもよくみたら写真なんですよ。

いい写真は半分にしてもいい写真。

 

普通、中心のない写真は(コンテストでは)無視される。皆の常識がそこにないから。審査する側がポイントを評価しているから。僕はそうじゃないと思う。もっと広く見てみたい。ポイントのない写真にも可能性があるんじゃないか。・・・自分でそういう写真を50点くらい作って展示をする。全部中心のない写真。そうすればやっと中心が見えてきたと感じるかもしれない。見えない中心が会場に立ち現れる。・・・架空の柱のようなものがそこに現れる。そういう可能性が写真の中にあるんじゃないかと思っている。中心のないものにこそ自分が表れる。

 

40年前とここ2,3年で、僕の写真は変わってきている。

最初何を撮ったらいいか、何を目指すかわからなかった。どこから始めようか、そう考えた時、生まれたタイ、バンコク、ハノイそして住んでいた家を探しに行こうと思った。自分探しというところから始めて撮ってきた。でも写真家として、作家として勝負していくためには、テーマで見せた方が人に伝わるんじゃないかと考えた。中心のない写真ではダメで中心のテーマを決めてしまう。そして撮る。《リビングルーム》もそう。東京のアパートにいろいろな外国人が来始めた時期で、彼らは部屋にもお国柄を持ち込んでいた。だからドアを開けた途端にその国の匂いがする。それをテーマに据えよう。中心にコンセプトを据えて、中心だけを見せる。そういう手法を随分やってきた。でも最近《セシウム》から、だんだん中心がない写真を撮るようになった。福島の山の中、川を撮っているんだけど福島を撮っているわけではなく、草むらを撮っている。そんな感じ。中心のない写真はこれだって指し示そうかなというのがこれからの僕のテーマなんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真には撮る側、撮られる側、その真ん中にカメラがある。写真ってそれらのあいまいな関係があるから面白い。

自分が撮ったつもりなんだけど、実はいい意味で撮らされたならば素晴らしい。決して撮っている私だけではない。撮られる人、カメラも参加している。自分を主張したい人は主張することもできる。でも自分を消したい人は消すこともできる。

カメラというものがこの世界と自分を繋いでいる。でもそれはすごく曖昧な関係なんだけれど、それを信じないと写真は撮れない。

虚構なんだよ。現実が写っているから現実だろうと思うけど、現実ではない。ペラペラの紙なんですよ。あくまで虚構の世界の中に写真があるの。私が見ちゃったものをカメラは忠実に撮ってくれたということを信じているから写真は成り立っている。

 

写真は誰のものか。写っている人、撮った人、カメラ?

写真は誰のためにあるかと言ったら、この3者は関係ない。100年後、私もあなたもこの世にいない。カメラも壊れている。残っているのは写真だけ。100年前の写真があったとしてこれは誰のものか。実は誰のものでもない。その時に見た人が感動したらその人のものになるんじゃない?

 

父親は写真館をやっていたから、僕たち子どもの写真をいっぱい撮っていて、アルバムにしているわけ。そこには50年前の写真がある。撮ってくれてよかったと思う。お父さんは何のために撮ったのかということを考えると、後で皆で見てくれっていうことなんですよ。写真の意味ってそこにある。こんな有難いことはない。50~60年経って今頃それを感じている。そこに写真の時間的なスパンとか意味がある。

 

写真がわからなければ、音楽も文学もわからないと思う。形が違うだけでみんな繋がっている。やっていることは同じだからわかる、感じられる。

 

自分の写真の問題は意外とひらめき。ひらめいたものを、今までの経験にのっとってやってみようかなと。でも最後まで辿り着けないなと思えば、その時やめようか、あるいは2~3年おいておこうか、そういう風にして進める道がどこにあるかというのを探すんです。

 


なんで明日写真を撮りに行くのかというと、まだ見たことのない写真を探すため。どこかに自分もみたことのないものがあるんですよ。それを撮るために行くの。どこにあるんだろう。つきないんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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今回も会場からたくさんの質問が出て、興味深いお話を聞くことができました。

有難うございました。

次回は12月12日。いよいよ成果展に向けて、作品をセレクトします。

 

展覧会「瀬戸正人 記憶の地図」展が12月4日(土)にオープンします。瀬戸語録と併せて、是非ご覧ください。

 

「アートミーツクッキー」開催しました

10月30日(土)、当館庭園&常設展示室にて「アートミーツクッキー」を開催しました!

お天気に恵まれて絶好のイベント日和でした。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アートとクッキーが出あう」って、どういうこと??? みなさん、はじめは不思議そうに、でも興味津々に参加してくださいました。

 

まず、ポストカードを購入します。それから、常設展を鑑賞し、ポストカードに書かれている質問の答えを自分の言葉で記入します。庭にいるイラストレーターさんにカードを渡し、答えをもとにオリジナルのイラストを描いてもらいます。最後にポストカードの穴にぴったりはまるクッキーをもらったら完成です!

 

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今回ご協力いただいたイラストレーターのお三方です!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大河原健太さん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

tomomi takashioさん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

福田美里さん。

 

参加者のみなさんと和気あいあいとお話ししながら、一枚一枚ていねいに描いてくださいました。手を抜かない作家魂は、さすがです!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ポストカードの答えと好きな色の「むらさき」から、とってもすてきなオリジナルのイラストになりました!常設展示室で「とけいのおと」がきこえてくるような作品を見つけたようですね。どの作品かしら?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらのファミリーは、ポストカードの穴は●でした。みどりの山、ダイナミックですね!

 

外が暗くなってからは、エントランスホールへ移動。幻想的な雰囲気の中、描いてもらいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

じっくりと作品を鑑賞して、おうちに帰っても自分だけのイラストとクッキーが楽しめる、とってもおいしいイベントでした!

 

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ご参加いただいたみなさま、ほぼお休みなしで筆を動かしていたイラストレーターの大河原さん、takashioさん、福田さん、ありがとうございました。優しいお味のほっこりするクッキーをつくってくださったぷてぃpetitさん、ありがとうございました。

 

また、当日お手伝いいただいた方々、素敵なイベントを企画してくださったFRIDAY SCREENの坂内さん、鈴木さんありがとうございました!

 

 

 

 

 

瀬戸語録:「瀬戸正人写真学校 in 福島」第2回報告

8月22日に開校した「瀬戸正人写真学校in福島」は、コロナの感染拡大のため9月19日は中止となり、10月24日に待望の第2回が開催されました。8月は瀬戸さんには東京からリモートでご参加いただきましたが、今回は来福され、初の対面授業となりました。

 2か月のブランクが空きましたが、今回も力作揃い。

参加者の皆さんには、事前に一人100枚程度の写真を提出していただき、瀬戸さんにあらかじめその中からセレクトしておいていただきました。講座では、一人ひとりのセレクト写真を見ながら、アドヴァイスや評価のポイントをお聞きしました。

 瀬戸さんの言葉を拾い上げながら、3時間にわたった授業の様子をご紹介します。

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写真は皆さんにとって何なのか。何のために撮っているのか。

何故写真を撮り始めたのか。何故写真が好きになったのか。写真を撮るというのはそこから始まっている。

 

写真は誰のためにあるのか。

写真は自分のためにあるのだけれど、見る人がいるから成立する。その両面がある。

写真には、撮られるものがあり、撮った人いて、その間にカメラがある。そしてその写真を見る人がいる。この4者が揃ってはじめて写真が成り立つ。

 

写真を見るというのはどういうことなのか。

きれいな花が写っている。しかし我々はそこを見ているのではない。撮った人の世界観、美学的なこと、人生を含めて、そういうものを感じている。

撮った人からすれば、写真を見られるということは、自分の世界観を覗かれるということ。

 

写真を撮るとはどういうことだろう。

人にはそれぞれ撮らなくてはならないものがあるからそれを撮る。では撮るべきものはどこにあるのか。それを探しに行かなくてはならない。自分を探すようなもの。そこに自分にとって大事なものがある。自分にとって大事なものを見つけて撮るからこそ、それを見た人は感動する。そうであれば、たとえそこに言葉がなくても、通じなくても、人間として世界観が共有できる。

 

写真って現実だと思っているかもしれないけれど、現実ではない。フェイク。現実のコピー。現実はどんどん過ぎていく、変わっていく。写真と現実の間にはギャップがある。カメラは嘘をつくことができる。そこの面白さに気づいて欲しい。

 

しょっちゅう撮っていると、感覚が芽生えたり、発展があったりする。アスリートと同じ。撮る意識を持って頻繁に撮らないと上達しない。

 

滝とか虹とか最低わかるように撮った方がいい。写真には、何が写っているか、具体性がないといけない。

 

何もなくてよい。ポイントがない、空っぽ、そこがいい。

あまりにも空っぽだと写真として成立しないが、そのギリギリのところに実は重要なものがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真は何を撮ってもよい。しかし自分にとって撮らなければならないものは強くあって、それを意識したとたんに写真は強くなる。人にインパクトを与えられる。

自分がこれを見たいという感覚をしっかり持てなければ伝わらない。

 

写真において気持ち悪いというのは誉め言葉。変態というのも誉め言葉。

 

みんなが見たことのないような写真がいい。どこかで見たことがあるような写真はいらない、ということ。見たこともないようなものは、実はあまりないけれど、全くないかというとそんなことはない。それを探すことが写真を撮ること。

 

写真を撮る時は、そのままたくさん受け入れて、見せる時は自分の中で処理して切り落としていく。どこまで切り落とせるかが見せる時の勝負。

 

モノクロとカラーは、人格が違うくらいに違うもの。

一つのシリーズの中でモノクロの隣にカラーが並ぶということはあり得ない。

 

写真を撮るということは、常に現実と向き合うこと。我々が目にしたものしか写せない。この世界を受け止めるのが写真。そういう哲学を持とうよ。そのまま受け止めるのが写真という装置。小型で性能のいいスキャナーがカメラだと思っている。写真を撮る行為とは、このカメラを持って世界をスキャンすること。

 

僕には写真の先生が二人いた。森山大道先生は、プリントする時にものすごく手を入れる。だから自分でも再現できない。同じことをしていても毎回微妙に違う。反対に深瀬昌久先生は全く手を入れなかった。そのフィルム、そこに届いた光、感光したものすべてを受け入れた。

手を入れて整えるか、それとも受け入れるか。僕は二人の先生を見ていて、その間を行ったり来たりしている。

 

写真は教えられない。人生どうやって生きたらいいか、誰も教えられないように、写真も教えられないはず。レンズの使い方、現像の仕方、テクニックは教えられるけれど、何を撮ったらいいのか、本質的なことは教えられない。しかし教えるためにポイント(構図の作り方や定型のようなもの)が必要だと考えられるようになった。花ならこう撮らなければならないというように。だから日本全国皆同じような写真になってしまった。戦後日本の独特のシステムだ。根深い話だが、しかしそれは間違っていると言いたい。個性が出せない。写真はもっと自由なはず。

 

写真は芸術。では芸術とは何か。

アメリカの進化生物学者・ダイアモンド博士によれば、芸術とは、

1 人間の行為。人間が作ったもの。

2 美しいもの。「美しい」には色々な意味が含まれる。

3 役に立たないもの。

役に立たないほど美しい。

 


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最後は芸術論で終わりました。もっと自由に解き放たれて、カメラを世界に向けて欲しい。瀬戸さんから受講者へ熱いエールが送られました。

 

芸術が役立つことを何かと求められる昨今、ここまで言い放っていただき胸がすっきりしました。役には立たないけれど、人が生きていくために必要なもの。芸術は不要不急ではないのです。

次回の写真も楽しみにしています。